日本においては、2020年から2021年にかけて斎藤幸平の『人新世の「資本論」』が30万部以上を売り上げるベストセラーとなった。この本の第2章はグリーンニューディールへの批判に費やされている。そのため、日本における気候危機への関心が高い読者層には、グリーンニューディールに対して否定的・批判的な立場をとっている方も案外多いのではないかと予想する。
しかし、斎藤のグリーンニューディール批判は文献の引用の仕方がしばしば不正確であり、また批判対象であるグリーンニューディール政策の要約にも不正確な部分が多く、特にグリーンニューディールやこれに関連する諸問題について予備知識がない読者には大きな誤解を与えてしまう恐れがある議論となっている。ここでは不正確な箇所の指摘と修正を網羅的に行うことは、時間の都合上できない。代わりに、このグリーンニューディール批判の問題を示す一つの例として、『人新世の「資本論」』73ページに登場する電気自動車に関する記述の正確性を以下で検討してみることにする。
「技術楽観論では[気候危機は]解決しない」と題された節において、斎藤は次のように述べている。
IEA(国際エネルギー機関)によれば、2040年までに、電気自動車は現在の200万台から、2億8000万台にまで伸びるという。ところが、それで削減される世界の二酸化炭素排出量は、わずか1%と推計されているのだ。
なぜだろうか? そもそも、電気自動車に代えたところで、二酸化炭素排出量は大して減らない。バッテリーの大型化によって、製造工程で発生する二酸化炭素はますます増えていくからだ。(斎藤, 2020, 73)
今回はこの主張の正確性を検討してみたいと思う。まず、この主張の根拠を見てみると、註20にはIEAの原典への参照がない。代わりにサミュエル・アレクサンダーとブレンダン・グリーソンの『Degrowth in the Suburbs』(「郊外における脱成長」、未邦訳)が参照されており、IEAへの参照は引用の引用に留まっている。そのため、斎藤の記述の正確性を確認するためには、アレクサンダーとグリーソンの著作とIEA報告書の両方を見る必要がある。
まず、アレクサンダーとグリーソンの引用元であるIEAの2017年『世界エネルギー展望』報告書を見てみよう。IEAの報告書は「新規政策シナリオ」と「持続可能な開発シナリオ」という2つの世界発展シナリオの比較検討を主軸とする、782ページにもおよぶ文書だ。「新規政策シナリオ」とは、世界各国の諸機関が現在公表している政策がすべて実施された場合のシナリオだ。対して、IEAは持続可能な開発シナリオを「国連SDGsのエネルギー関連目標を達成するための総合的アプローチ」と定義している。そして、IEAは「気候変動に対する断固たる行動、2030年までの近代的エネルギーへのユニバーサル・アクセスの達成、そして大気汚染の劇的な削減」というSDGsの諸分野において「新規政策シナリオでの進歩は十分ではない」と主張している。つまり、新規政策シナリオはそもそも気候変動対策として不十分だとIEAは述べているわけだ。
付記すると、IEAの議論の前提となっているこの3つの目標の達成は、特にサハラ以南のアフリカに住む人々にとっては切実だ。IEAによると、2017年現在同地域では約11億人もの人々が電力にアクセスできておらず、また約28億人もの人々が家庭での調理や暖房にバイオマス燃料や石炭や灯油を使用している。そのため屋内大気汚染の問題が深刻であり、年間約280万人の死者が出ていると推計されている。また気候変動による同地域の人々への悪影響も、多くの専門家が指摘するとおり深刻だ。そのため、持続可能な開発シナリオにおける目標達成はまさに人命に関わる問題だという点をおさえた上で議論を進めることが重要となる。
以上の理由により、IEAの報告書では世界の電力供給量が2040年まで大幅に増え続けることを前提とした上で、エネルギーの消費量や省エネ技術の導入速度、また電力源のちがいなどがもたらす様々な影響が分析されている。電気自動車の導入の議論もこの文脈でなされている。新規政策シナリオでは、電気自動車が2017年現在の約200万台から2040年には約2億8000万台にまで増えるが、世界の自動車の台数も2017年現在の約10億台から2040年には約20億台に増える。つまり、電気自動車の台数が約2億8000万台へと増えるかたわらで、ガソリン車の台数は追加で約7億2000万台も増えることになる。またこのシナリオ内の「石油低価格ケース」というサブシナリオでは、タイトオイル資源量が他ケースの2倍あると仮定され、供給量の増加のおかげで石油価格への上方圧力が弱まった場合が検討されている。このケースでは追加のインフラ設備や各種追加政策の実施によって電気自動車の導入台数は約9億台に増えるが、それでも石油の価格が低くおさえられているため、他の消費分野への強固な政策介入がない限り、2040年までに経済全体で石油から再生可能エネルギーへの大規模な転換が起こることは考えにくいとされている。(ここの議論の詳細は専門的であり、私にはこれを十分に理解して評価するための専門知識はない。読者の皆様にはこの点をご容赦いただきたい)。
こうしたIEAの議論を、アレクサンダーとグリーソンは次のように要約している。
2017年にIEAは年次報告書である『世界エネルギー展望』を発表し、既述のように(現在200万台である)電気自動車の台数が2040年までには2億8000万台になりえるという楽観的な結論を出しているが、同時にそれは世界の炭素排出量を1%しか変化させないとも結論付けている。さらに、IEAは電気自動車による石油消費量の削減が世界経済の他の諸分野(船舶輸送、トラック、飛行機、石油化学産業等)における石油使用量の増加によって相殺されるため、電気自動車が将来的に石油の「ピーク需要」を引き起こすことはおそらくないとしている(Alexander & Gleeson, 2019, 77)
それでは、そもそもこれがIEAの原典の議論の要約として十分に正確であるかどうかを検討してみよう。引用部における自動車の台数は「新規政策シナリオ」における「石油低価格ケース」以外の場合の数字の記述だ。このシナリオとケースを前提としているという点を念頭に置けば、アレクサンダーとグリーソンのこの数字は正確であると言える。しかし、先述したとおり、そもそもIEAは新規政策シナリオを気候変動対策としては不十分だと評価している。現在の世界にとって必要な追加政策を議論する上で意味をもつのは、この対策不十分と結論付けられているシナリオではなく、持続可能な開発シナリオにおける電気自動車の有用性だろう。IEAによると、持続可能な開発シナリオにおいては、電気自動車の台数は2040年までに約9億台に増える。電気自動車のこの大幅導入だけで、2040年には「一日あたり約920万バレルの石油消費が削減される」とIEAは述べている(160)。さらに自動車の省エネ化の徹底によって追加で「一日あたり約1400万バレルの石油消費が削減される」との記述もある。ただし、交通・運輸部門におけるエネルギー総需要に石油が占める割合については、2017年現在の92%という数字は持続可能な開発シナリオにおいてでさえも60%までしか減少しないともIEAは述べている(161)。そこでは乗用車とバスの分野における石油需要の大幅減にくわえ、発電、道路運送、飛行機、船舶輸送、そして建造物の諸分野で石油需要の減少がみられるが、工業においてはほぼ変化がなく、石油化学の分野においては石油需要の上昇がみられる(161)。
以上を考慮に入れると、アレクサンダーとグリーソンの要約には誤解を生む要素が少なくとも2つある。第一に、電気自動車の大規模導入が「世界の炭素排出量を1%しか変化させない」とする記述は、自動車による排出量という文脈では不正確な記述だ。というのも、持続可能な開発シナリオが示すとおり、ガソリン車を電気自動車に置き換えた場合、乗用車やその他の自動車からの炭素排出量は大きく削減されるからだ。第二に、1%という数字が何を示しているのかがアレクサンダーとグリーソンの著作では明確にされていない。IEAの報告書には「電気自動車を大規模導入しても排出量は1%しか削減されない」というような直接的な記述は存在しない(*)。ただ、IEAの報告書を見る限り、電気自動車の大規模導入が乗用車およびバスの炭素排出量を大幅に削減するという分析結果が出ているため、もしアレクサンダーとグリーソン、また斎藤の各著作の読者が「電気自動車を導入してもガソリン車と比べて大した排出量削減は期待できない」と思ってしまうとしたら、それは明らかな誤解だ。
IEAの報告書を概観し、アレクサンダーとグリーソンの要約とその問題点を見てきた。斎藤の引用節はアレクサンダーとグリーソンの主張をほぼそのまま繰り返しているため、そこにも上記の2つの問題点がそのまま反映されている。そのため、斎藤の主張もIEAの報告書の内容の要約としては誤解を生む可能性が高く、一部不正確であると言える。また、始めに引用した2段落への註20で、斎藤は「二酸化炭素排出量が減らない理由のひとつが、途上国の経済発展によってガソリン車が今後さらに増大するからである」と述べている。しかし、アレクサンダーとグリーソンはこう述べている。「電気自動車の最大の市場は人口の多い発展途上諸国であり、こうした諸国は化石エネルギーへの電力依存度が特に高いため、電気自動車の気候変動対策としての有用性は微々たるものである」(77)。つまり、ガソリン車の増加が問題なのではなく、電気自動車を充電するための発電に化石燃料が使われてしまうことが問題だとされているわけだ。また既述のとおり、電気自動車の有用性が限られているもう一つの理由として、アレクサンダーとグリーソンはIEAの報告書を参照しつつ「世界経済の他の諸分野(船舶輸送、トラック、飛行機、石油化学産業等)における石油使用量の増加」を挙げている。ここでも、発展途上諸国におけるガソリン車は挙げられていない。以上から、斎藤の註20は不正確である。また、斎藤からの始めの引用節の2段落目の「バッテリーの大型化によって、製造工程で発生する二酸化炭素はますます増えていくからだ」という記述も、アレクサンダーとグリーソンの主張の要約としても、IEAの報告書の議論の要約としても不正確であることがわかるだろう。
電気自動車に関する2段落を検討してきた。『人新世の「資本論」』におけるグリーンニューディール批判は、このような細かい誤解や誤読の積み重ねに基づいている。間違いを指摘するためには一つ一つの主張や記述について原典やその周辺の資料をていねいに検討する必要があるため、分析も必然的に長く複雑なものになってしまい、ともすれば揚げ足取りのようにも見えてしまうかもしれない。だが、気候危機への対策を議論する上で、間違った情報に基づいて間違った結論が導かれてしまうことを防ぐためには、情報の正確性がとても大切だ。その大切さはどれほど強調しても足りない。例えば、以上で検討した2段落は、たった2段落であるとはいえ、これを日本で数十万人もの人たちが読んでそのまま鵜呑みにするのだとすれば、電気自動車への導入に対する誤解を大きく広げてしまう原因にもなりかねない。「電気自動車を大規模に導入しても、排出量は1%しか削減されないのか。しかもそれは製造過程での排出が原因なのか。ならば電気自動車に反対しよう」という誤解に基づいて、気候危機を解決したいと切望する有権者が「電気自動車推進派」の議員や政策立案者を落選させたり、電気自動車を開発する企業や研究機関に抗議をしたり、電気自動車の開発と普及への積極的な投資に反対したりすることも考えられる。あるいは、仕事や生活でどうしても自動車が必要な人たちを責めるような風潮が生まれてしまうかもしれない。対して、IEAやその他の研究機関の文献を専門家が正確に解説しているような書籍や動画を参考にすれば、有権者にも正確な情報が伝わり、電気自動車に限らず個々の取り組みについて目的と手段の整合性がとれるようになる。グリーンニューディールもそのような取り組みの一つであり、それを支持するにしても批判するにしても、「情報の正確性」という基準は守られるべきだろう。
「10秒もあれば嘘をつくことはできるが、その嘘を正すためには10分の時間が必要となる」というノーム・チョムスキーの言葉がある。10秒の嘘にまどわされず、10分かけてその真偽をていねいに検討する読者が増えることを切に祈る。
参考文献
Alexander, S., & Gleeson, B. (2019). Degrowth in the Suburbs: A Radical Urban Imaginary.
Singapore: Palgrave MacMillan.
International Energy Agency (IEA). (2017). World Energy Outlook 2017.
URL: https://www.iea.org/weo2017/.
斎藤幸平. (2020). 人新世の「資本論」. 東京: 集英社.
*アレクサンダーは私信で「1%という数字は『世界エネルギー展望』からの直接の引用ではなく、この報告書を土台とする2017年IEA報告会で示されたものだ」と述べた(報告会の動画はここ、1%という数字が出てくるのは30:11辺り)。報告の文脈から察するに、これは石油低価格ケースではない新規政策シナリオにおいて電気自動車を導入した場合、2017年比で世界の温室効果ガスの総排出量が2040年までに約1%減るという意味だ。この場合、1%という数字は妥当であるように思える。まず、2020年現在の世界の総排出量に自動車が占める割合は約15%だ(電気自動車による置き換えの主な対象である乗用車やバスの場合は約9%となる)。2040年の推計自動車総数は20億台で、そのうち2億8000万台(10.4%)がさきのシナリオでは電気自動車となっている。つまり、世界総排出量に占める割合で見た場合、仮に各部門の比率が23年間でそこまで有意に変動しないと仮定した場合、介入の対象となっている排出量は約15%の10.4%で2.1%となる。この2.1%の排出が1%ポイント削減されるということは、ガソリン車に比べて電気自動車は温室効果ガスの排出量が約2分の1であるということを意味する(実際には、先ほど述べたように電気自動車の置き換え対象は15%よりも9%に近いため、排出量削減率もさらに高く見積もる方が正確だと思われるが、ここでは便宜上抑え目の数字で話を進める)。これは決して低い数字ではない。この計算を持続可能な開発シナリオに当てはめてみると、20億台の自動車の45%に相当する9億台が電気自動車となるが、この場合の削減対象は世界の総排出量15%の45%で6.75%となる。電気自動車の導入によってこれが半減するということは、このシナリオだと2040年までに世界の総排出量が電気自動車の導入だけで約3%削減される計算になる。これはかなり大きな成果であり、電気自動車の有用性を示す上で十分な根拠であると言える。以上から、「1%」という数字を何の文脈も与えずに提示して読者に「たったこれだけか」という印象を与えるような書き方は誤解を招く恐れがあり、しっかりと文脈を整理したうえでこの数字を読み解くと実はこれはとても大きな成果を示す数字であるという点が見えてくるだろう。なお、これについて私は専門家ではないため、より詳しい検証はIEAのさきほどの報告会の報告者に直接問い合わせてみることが一番確実だろう。